「昔の話をしよう」
 昔話は老人の特権。喉まで出掛かった言葉を彼は飲み込んだ。目の前に座っている男は、老人は老人でも特権を持った老人であり、迂闊な言動は即座に粛清の口実となることを彼は経験的に知っていたからだ。
「聞きたいかい?」
 人懐っこい笑みを浮かべて男は問う。しかし、その眼の奥が決して笑っていないであろう事は、視線を合わす前から分かっていた。相手の眼を見れば、逆に己の心を覗かれそうで、彼は思わず視線を逸らし床を見た。古代の人々は鹿の肩甲骨を火箸で刺し、そこに走った罅割れから吉凶を占ったと言う。ならば、床のタイルの罅割れからも、吉凶を知ることが出来るかもしれない。……だが、見れば見るほどその罅割れは禍々しく感じられた。
 くそっ、どうしてこうなってしまったのか。彼は自分自身に対する呪詛を押さえ込みながら必死で考えていた。俺はどこで間違えたのか。この老人と闘うと決心した時か。闘えるだけの権力を手に入れたことか。それとも、そもそもこのサークルに入ってしまったことか。
「聞きたいかい?」
 男は再び全く同じ質問を繰り返す。口調は柔らかだが、そこに込められている有無を言わさぬ圧力を、彼はひしひしと感じていた。ここで「答えない」という最悪の選択肢を選ばぬ程度には、彼はこの世界に順応していた。順応していること自体は最悪であるが。
 ――問題はどう答えるかだ。無知は罪であり、罪には罰を。それがこの世界のルールだ。生き延びるためには情報が必要なのは言うまでも無い。だが、知りすぎることは時として更なる危険を呼び込むことになる。飛べない鳥が生きてゆけないように、太陽に近づきすぎた鳥はその火に焼かれて死ぬ。知らぬが仏、そういう言葉もあるのだ。進むも地獄、引くも地獄。
「同じ地獄なら踊らにゃ損々」
 彼は小声で呟くと、相手に肯首した。