禅譲

 私は椅子に深く腰掛けると、目の前の青年に言った。
禅譲、皆はそう言っているのですか?」
 禅譲。天子が徳のある臣下に天下を譲ること。転じて、平和的な権力交代を喩えて言う。
 しかし、敢えて言おう。そのようなものは欺瞞であると。史上はじめての禅譲である漢魏革命からして、恐怖と暴力と脅迫と詐術に満ち満ちていたのだから。今回の政権交代禅譲に喩えた人間は、果たしてそれを意識していたのだろうか。
「先代の動向は?」
「はい。特にあからさまな動きは見せていないようです」
「そうですか。気を緩めずに監視を続けてください」
「……あの方に、これ以上何か出来るとは思えませんが」
「普通の相手なら、ね。ですが、相手は――」
 傑出したカリスマ。開発独裁を掲げ、人事・運営・会計の三権を一手に握る能吏。一対一で抗争すれば、先代編集長に敵う人間はこの組織には存在しない。それに――
禅譲、ね。他の方々はこの政権交代に批判的なのですかね」
「そ、そんなことはないっすよ」
「誰かが、何かを考えたとしても不思議ではありません。監視は継続してください」
 だが、今思えば、その優秀さこそが禅譲劇の発端であったのだ。
 優秀な独裁者の悲劇は、その有能さ故に、組織が拡大し巨大化してしまう所にある。巨大化した組織は、その巨大さ故に、独裁者の手を離れて独自の意思を持ち始める。テクノクラートによる権力奪取、突き詰めれば今回の政権交代はそれだけのこと。
 そこに――私の意志はあったのだろうか。
 机の上に置かれた辞令に目をやった。私を編集長に任命する、この辞令を作成することが、先代の最後の仕事となった。その文字にはわずかの震えもない。
「どうしたんですか? 眉を顰めて」
「何でもありません」
 莫迦な。覚悟していたとでもいうのか。
 私はもう一度見た。わずかの震えもない文字を。