というわけで、うさみちが「萌え要素を細密に分類しようとした」ことに対して、自分が「その先に道はない」と言った理由を説明せねばなるまい。昔の失敗も含めて。
 第一の理由は、どんなものであれ、分類すること自体が無駄かどうか、という以前に、何のために分類するのかを問わなければならない。萌えを分類を始める前に、その分類を何のためにするのかということを考えてみよう。
 分類自体が楽しくて楽しくて仕方がないという分類フェチであれば、特に言うことはない。たっぷり幸せ浸っていただくまでだ。
 しかし、もし萌えを分類して、それを(例えば創作に)役立てよう、というのなら、その扱いには注意しなければならない。問題は二つある。一つは、現在存在するあらゆる要素を分類できたとして、それが完全なものであると(つまり、今後現れる全ての要素を網羅できると)言い切ることが可能なのか、という問題。完全性が保障されないのであれば、その分類は作った瞬間に「あらゆる要素を分類したもの」ではなくなっている可能性を否定できない。そんな分類を作ることに、どれほどの意味があるだろう。更に言えば、そんな分類を否定するような、自分たちの予想を裏切るような斬新な要素こそ、我々が常に待ち望んでいることなのではないか。(「13歳伯母」という設定の何と斬新だったことか!)
 もう一つの問題として、たとえ完全な分類が可能だったとしても、それを手に入れて、一体何をしようというのか。既存のパターンを組み合わせるだけで、「萌え」させようとする安直な精神こそ、我々が批判すべき対象だったのではないか。萌え要素を最密充填したキャラを作れば、それが究極になるとでも思えるのだろうか。完全な萌え要素のカタログがあろうと、それが萌えキャラを作ることに直結しないことは言うまでもない。
 斬新なアイディア、絶妙のバランス。そういったものを生み出す上で、従来の事例を分析することが益なしと言うつもりは毛頭ない。しかし、それは分析であるべきだ。分析と分類の間には、決定的な差が存在することは、改めてここで言うことでもないだろう。
 以上の理由で、かつて僕たちは「分類」に対して背を向けた。上記の理由は、その判断が誤りではなかったと信ずるに十分だと考えるが、諸君は如何に思われるであろうか。