暗号化

(昨日の続き)
おそらく全ての問題は、暗号化にあったはずだ。(社会でも国家でもいい)大文字の「誰か」に(原理的に)知ることの出来ない情報が存在すること、それ自体が社会の枠組みに対して挑戦的であると見做されることは何ら不思議ではない。なぜなら人と金と土地を、言い換えるならば「資産」を(情報として)管理することが、近代の近代たる所以だったはずだからだ。
したがって、「知ろうと思えば知れるが、知ろうとは思わないこと」と「知ろうと思っても知れないこと」の間には、結果が同じでも、その効果には(情報を隠匿する側にも、暴こうとする側にとっても)雲泥の差がある。必要な情報を知ろうと思えば知れるほどの「権力」を持った存在に庇護されるのと、その無力をあからさまにした「権力」に庇護されるのと、どちらが安心できるのかと問われれば、答えは明白だろう(もう一つの選択肢として、国家に保護なんかされねーぜという「脱権力」論が出てくるのだが)。
だからこそ、エシュロンという幻想は絶えることなく囁かれ続ける。奴らは全部、知ろうと思えば知れるんだ、と。