充足されざるもの

 そう、これが足りなかったのだと気づいた。


 世の中が便利になったおかげで、金さえ出せば大抵のものはこっちでも手に入る。上海の日本(オタク)製品が高い高いと文句を言っているが、それも中国の物価と比べてのこと。日本の相場を基準に考えれば、理不尽と言うほどのものではない。せいぜい、少し田舎のグッズショップでプレミア品を買う程度の上乗せ額だ。さらに日本の友人たちの気協力を仰げば、それこそ日本とほとんど変わらない生活を送ることだって可能だ。物質的には。
 しかし、人がパンのみに生きるわけではないように、モノが何でも手に入るからといってそれだけで日本と同じであるとは言えない/言えなかった。この半年、アキハバラで手に入るものがあろうとなかろうと、僕の生活にはそれほど影響はない/なかったわけで(もちろん、一時帰国したときに大量にHDDに仕込んだアレやコレについては別として)。
 「こっちにいると『循環』しない」と、僕の友人は言った。行きつけのイスラム料理屋で一番安い葱油拌麺を食った帰り道に。ちなみに、帰りがけに後門のところにあるジューススタンドでタピオカミルクを買うのが彼の日課だった。
 循環しない、という彼の言葉はよく分かる。内側から溢れたものが行き先を失くしている感覚。必要なものが外から届かない感覚。楽しいのに、何かが欠けている感覚。
 いや、まあ、何か、って分かっちゃいたのだが。
 ……足りないのは、権謀術数だった。悪い意味のではなく、周囲の人間が困らないように、先回りするための予測と対策のことだ。コネクションとコミュニケーションで先を読み、万全の対策を練り、普通考えたらとても上手くいくはずのない事が、あるいは一つでもミスったら成功しないことが、仲間の手を借りてどうにかギリギリで成功する。
 うっかり知ってしまったアノ楽しさのために、今やこんな身になってしまったわけで、少しは反省しろと思わなくもないが、反省しても全く後悔はしていない。我ながら度し難い阿呆じゃないかという疑念ぐらいは抱くかもしれないが。
 だが、今の自分はコネクションも、コミュニケーションも不完全だ。ぶっちゃけて言えば、上海の小学生のほうがまだしっかりしているぐらい、一人では何もできない。そりゃ、日常生活を送るだけなら、身振り手振りカタコトでどうにかなる。標識や看板だって読めるし銀行だって使える。だけど、今言いたいのはそんなことではない。
 人とコミュニケーションを取る術が、人の心を掴む術が、今の自分には圧倒的に欠けている。情報を分析して先を読むことすら満足に出来ず、ましてやそのために人の手を借りることなど論外。
 こんなありさまでは、さすがに権謀術数とか、謀略とか言っていられないわけで。日本にいたときは、普通にそういう話が出来た分、反動が出ているのだろう。じっとしていれば、ただ流される日々も悪くないと感じられるようになるのかもしれない。
 ま、そんなの真っ平御免なので、こっちでも人脈とコミュニケーションスキルを必死で鍛えようとしているわけですがね。
 ホント度し難いなこの人は。