イノセンス

いまだに総括できずに消化不良な感じなのですが。
いかにも押井っぽい、というのは、見た人にある程度共有されている感覚らしい。台詞回しとか、画面の構図とか、全体的な色のトーンとか、乗り物に乗らないとダイアログできないところとか。
以前から、押井っぽい感覚っていうのは、上に挙げた特徴によって表現される、粘着質で閉鎖的な人間関係や、引用を使わないとコミュニケーションできない人々や、ニヒリズムを装ったエゴイズムの話であるわけで、それを一層激しく表現することには成功しているのではないかと思う。主張が先鋭化している点は、悪いことじゃないですからね。
で、やたらと「押井(談)」の多いパンフレットを読みながら、絵と音をデジタル処理することが、あの映画のポイントだったのかもしれないと考えてみた。デジタル化によって「均質化」する(厳密には均質化ではなく「改変」であるのかもしれませんが)ことで、押井以外の特徴が出ないようにしているのではないかと。
だとしたら、デジタルエフェクトの使い方として、あんまり面白い使い方ではないなぁ。
綺麗な絵と、派手なガンアクションを見ているだけでも十分楽しいので、「映像体験」という宣伝文句をそのまま受け入れて見るのもアリなのでしょうか。