甲田学人『Missing』(9-11)(電撃文庫)

考えるに、『Missing』はホラーとしては極めて異常な作品だ。
小説でも、映画でも、ホラーは基本的に一人称視点を活用しないことには成立しない。それは、「恐怖」が極めて個人的かつ根源的な感情で、客観的視点からでは登場人物に没入しにくいものであるからだ。例えば『リング』(のあの有名な貞子のシーン)や、『バイオハザード』(の冒頭のゾンビが屍肉を喰らっているシーン)見ても、恐怖を演出するシーンに主人公の顔が映っていない。読者が主人公に没入するため、一人称的視点を多用しなければならない以上、ホラー小説において群像劇的な展開は取りにくい。多くのホラーにおいて、主人公が明確にされているのは、理由のないことではない。
話を『Missing』に戻すと、この小説は文芸部に所属する生徒たち群像劇でありながら、同時にホラーという、アクロバティックな展開を行っている。客観的な第三者視点で書かれている文章が極端に少なく、すべて事柄は登場人物の「印象」でしか語られない(そして、その「印象」自体が、『Missing』の重要なテーマになっている)。要するに、『Missing』は「同じ舞台、同じ事件を基にした五本分のホラー」なのである。
これを可能にしたのは、「文芸部」が従来のライトノベルで用いられていたような単なる「役割分担」にとどまらず、「文芸部⇔外部の組織」という構図のほかに「文芸部の部員同士」という二重の緊張関係を構築し得た点にある。二重の緊張関係は、「文芸部」というサークルが不安材料を抱えながら一つのまとまりとして存在していたからこそ成り立っていた。同床異夢の居心地の悪さと、仲間意識の居心地の良さの、相反する二つの要素の間で、それこそ綱渡りのように絶妙のバランスを取ってきていた。9〜11巻で感じられるテンションの高さは、この対外的・対内的な緊張感の高まりによるものだろう。
学園サークルものならば、掃いて捨てるほどある。サークル内のドロドロした人間関係を描いたものだって、幾らでも見つかるだろう。ただ、『Missing』のように、それらを同時に、しかもホラーという、最も困難な手法を用いて描こうとした作品は他に知らない。
もちろん、その代償として、重厚長大で複雑な物語となり、読者を選ぶものになってしまうのは仕方がないのかもしれない。こんなに凄いのに勿体ない、とは思うのだけれど。