「さよう, Appleは今日CDを殺した」(TechCrunchJapan)

 正直に告白すると、実は一度もMacを買ったことがない。もちろん、職場やその他で触ったことはある。ハイセンス・ハイスペックのPCにあこがれはしたものの、あのオシャレオーラに尻込みしてしまい結局買わずじまいのまま、今日まで来てしまった(というのは建前で、Macだとできるゲームが限られていたから、というのが最大の理由だが)。「Macを選ぶということは、Macという生き方を選択した、ということである」という名言があるぐらい、Macというのは、ある種の覚悟と自覚を持って選び取るものだった。だが、どうやら今ではそうではないらしい。
 iTune以来、アップルのやろうとしている事は一貫している。デバイスの独占と、それに伴うコンテンツ流通システム(個々の売れる/売れないコンテンツそのものではない)の独占だ。その余波が、ついに本丸のMac本体にまで押し寄せてきた、ということなのだろう。コンピューターを、ネットワークをあつかう企業として、その全体をコントロールすることは、相当の魅力があるのは理解できる。だが、自分はネットワーク企業ではない。
 個人の立場からすれば、個人端末に届くまでのコンテンツ流通が一企業に完全にコントロールされている状況が望ましいとはとても思えない。アップルの「認証によって安全で、品質の保証された、誰でも楽しめるコンテンツを保障する」メリットはあるかもしれない。アップル様の良識ある判断によって、子供でもお年寄りでもネットでアプリを利用できる社会が到来するのかもしれない。しかし、その裏で何が失われているのか、考える必要はあるだろう。
 以前、iPadのときにも、「iPadは美味い飯を出す監獄」と感じたが、どうやらMacもその監獄の一部になるらしい。コンテンツの流通の根っこを握られることは、コンテンツ制作に致命的なダメージを与え、それは巡り巡って消費者にも「面白いコンテンツの減少」という形で跳ね返ってくる。かつて、書籍媒体しかない時代には、コンテンツの流通は出版社が握っていた。しかし、紙というメディアであれば、地下出版なり、ゲリラ出版なりが可能だった。インターネットの登場によって、紙媒体の影響力=出版社のコントロール出来る範囲は確実に減った。その変化は今でも続いているし、(たとえ有象無象のくだらないものが溢れたとしても)そのこと自体を自分は望ましいものだと考えている。
 iTuneやAppStoreの目指す方向は、「これは流通させるのべき/べきでない」をどこか消費者とは違うところで審査される、という点において、紙媒体時代の出版社の目指していた所とあまり変わらない。たとえば、僕の友人がiPad上で動くアプリケーションを自力で作ろうとする。開発キットは一般人でも手に入るから、プログラミングの知識さえあれば作ることは可能だ。だが、その作ったアプリケーションを多くの人に触ってもらおうと思ったら、ちゃんとした審査を受けなければならない。誰に? もちろんApple様にだ。これがWindows上のアプリケーションであれば、そのままホームページにでもアップすれば誰でもダウンロード出来るのに(君のことだよT.T.!)。
 もちろん、今のアップル様は良識溢れる会社だから、独裁的に振る舞うことなんてありえない! だが、将来にわたって良識ある対応を取れるのか。また、良識の名の下にこそ、様々な抑圧が行われてきたのではないか? みんながiPhoneやMacBookAirを使っている世界というのは、いささか窮屈そうに思える。
 と、そんなことをブラッドベリの『華氏451度』を読みながら考えたのであった。