三上延『ビブリア古書堂の事件手帳』(メディアワークス文庫)(ISBN:4048704699)

いつ、ヒロインが本のページを破って食べ始めるのかドキドキした。
……というぐらい、アレと雰囲気がかぶっている。特にヒロインのしゃべり方とか、分からないでやってるとは思えない。
というか、三上延はそれを踏まえた上で、我々がアレに感じた違和感について、すごく遠まわしに「それ、間違ってるんじゃないか」と指摘しているようにも思える。

以下、ビブリア古書堂を読んでいるうちに考えた、文学少女シリーズの話をする。印象批評そのものだが、この手の印象は言語化して残しておかないと絶対に忘れる。
上で述べたアレというのは、言うまでもなく、「遠子先輩が本を食べる」というあの設定のこと。最初から最後まで出てくるのに、シリーズが完結した後も、何の意味があったのかずっと引っかかっていた。伏線として意味がなかった、というだけではなくて、「文学少女」と「本を食べちゃうぐらい好き」という間に、何か絶対に相容れないものを感じていた。
追い込まれた受験生が辞書を食べて覚える、という都市伝説があるぐらいで、普通、本好きの人でも本は食べない。普通の人が食べないものを食べるから、遠子先輩が「特別」なヒロインであることをアピールできる。それはいい。ただ、「本を食べる」という行為を、ポジティブにとらえる人は多くない。歴史的に見ても、本を食べる、という行為は、(飢饉で食べ物がない時でもない限り)どの文化コードでもNGだ。平安貴族や六朝貴族にいたっては、彼らの貴族たる矜持にかけて、餓死したって本を食べたりはしなかったらしい。
なぜ、本を食べるのはNGなのか。革靴を煮て食べるのとはどう違うのか。
それに対する答えの一つが、ビブリア古書堂には書かれている。「本にはその内容だけでなく、本自体の物語がある」「僕の知るかぎり、コレクターは本を燃やしたりしない」。私もそう思う。本が、その他のものと違うのは、そこに書き手の精神的な要素(思想なり、願望なり、主張なり)が込められているところにある。極論を言えば、本には人間の一部が込められているように、人々は感じていた(ここだけは「私が」ではなく、人々は、と書きたい。今はあまりやかましく言われないが、一昔前までは、本を足で蹴っ飛ばしたり、踏んだり、跨いだりすると、老人に叱られたのだ)。それを、千切って(破壊して)、食べる、という行為が、疑似的なカニバリズム以外の何者であろうか。あまりいいたとえではないが、「人型のチョコレートの首から上を千切って食べるのが大好きな女の子」がヒロインだったとしたら、どこかドンヨリした気分にはならないだろうか。
本を好きな人、愛書家というのは、本に掛かれている文字列ではなく、その意味と精神を愛しているのであって、それを破壊しておいて文学少女を名乗られても、「遠子先輩、あなたは本のことが本当は嫌いなんじゃないかな?」と問いたくなる。
ちなみに、文学少女を通して、この「本を食べる」という行為の意味として期待していたのは、まさに上のような話であった。さらに『ミザリー』にカニバリズムを足して、学園ラブコメで割ったマッド探偵ものという、壮絶なゲテモノが出てきたら、私は狂喜乱舞して喜んだろう。いあ、いあ!

もちろん、野村美月はそんなことは百も承知で、私はその掌の上で踊らされてるんだろうけどね。以上。