塩タン・カルビ・ギアラ

 久々にM氏と吉祥寺で焼肉を食う。来ると言っていたcyberia君は寝ぶっち。幕張で仕事じゃ、さすがに無理か。
 我々はずいぶん遠くまで来てしまったのかもしれない、と帰りに自転車をこぎながら考えた。
 要するに我々は、誰も彼もが恥ずかしげもなくオタク的に振舞える世の中を望んでいたわけではない。日経新聞の見出しに「萌え」という単語が上る時代を歓迎しているわけでも、なかったはずだ。
「自信満々に『萌え』とか言ってる連中はちょっと違うんじゃないの?」
 その後で彼が「ザコオタめ」と付け加えたのは省略しておく。
「同人誌を作るときとかさ、どっかに「恥ずかしさ」があったじゃないか。こんなもの作ってごめんなさい。でも面白いからいいよね、っていう、卑下と傲慢の入り 混じった部分が、人間くさくてよかったんじゃないのさ?」
「いやまったく」
 卑下と傲慢の中庸。まさに我々に対する自己言及以外の何者でもなかったので、私は肉を頬張ってうなづいた。
 彼が言った言葉は、多分正しい。
 僕や彼のような(ある意味ちゃらんぽらんな)人間にとって、自分の価値観に絶対の自信を持っている人間は、どうにもこうにも相容れない。というか価値判断があまりにフレキシブルすぎるので、相手にしてもらえない。結果、言葉が通じないので、とうにもならない。宗教だろうと、良識だろうと、萌えだろうと、価値観を絶対視しているって点ではどれも同じってことを、どう言えば分かってもらえるのだろう。
 もちろん、こんなことは、十年も前に話し合った確認事項で、再度確認することにほとんど意味はないのだが。
 それでも、確認しないとやってられないこともあるのですよ。